春が連れてこられて

初夏と錯覚するかのようなあたたかさの日。通勤途中にある桜が綺麗な道で、今シーズン初めてピンクの花を見つけた。もう少しで五部咲き、といったところだろうか。昨日まではなかったというより見ていなかったのだろう。あたたかさに、春が来ためじるしを知らず知らずのうちに探しているようにも思う。

今日はWBCの決勝戦があって、職場に着くとすでに試合が始まっていて、先に出勤していた同僚がテレビを見ていた。始業後もきっとみんな浮き足立っているというか、仕事をするふりをして試合中継を見ているのか、試合中継の合間に仕事をしているのかわからない人もいたように思う。午前11時半くらいに、会議室にいても聞こえるくらい大きな拍手がして、ミーティング中だった上司と一緒に速報を開くと9回表アメリカの攻撃でゲッツーを取り、あとアウトひとつという場面だった。しばらくして、先ほどよりも大きな拍手と歓声が聞こえて、日本代表が世界一になったことを知った。

普段熱心に野球を見る方ではないし、ほとんどの選手の名前も初めて知ったけれど、それでもやっぱり日本の優勝はわたしも嬉しくて、しかもMVPに輝いた大谷選手は同年代なこともあって、それだけなのに少し誇らしかった。

試合後は、大谷選手がチームメイトに語った「今日だけは憧れを捨てましょう」という趣旨のあいさつが話題になったり、あまりにもドラマチックな試合運びに、まるで漫画みたいというツイートがたくさんされていて、いろいろな人がいろいろな形で喜びや凄さを表現しようとしているようだった。侍ジャパンも、わたしたちに春を連れてきた。それらをざっとスクロールしていろいろなドラマの舞台裏を知ったけれど、なんとなくいいねを押して回るのも違うなと感じ、結局「わたしも頑張らないと」と言っている友人のツイートにだけいいねを押した。わたしたちはわたしたち自身のことに目を向けて、小さな範囲で感動を噛みしめれば、それだけでいいのではないだろうか。

夜、仕事終わりに決勝戦の再放送を見た。結果がわかっている試合なのに、空振り三振を奪い世界一が決まった瞬間には家でひとり声をあげて喜んで、涙が出ていた。ここまでの道のりの険しさを想像してみたけれどきっとそれは不十分で、けれど不十分なりに想像してはまた泣けてきて、そしてわたしも何かに同じくらい打ち込んで、頑張らねばと思った。

目を覚ましたら夜

有休消化のような感じで、半ば無理やりに近く休みを取った。仕事が始まる時間に目を覚まして、漫画を読んで本を読んで二度寝をしていたら夜になっていた、そんな感じの一日だった。よく、「一日に満足していないと、あれもやらなきゃこれもやらなきゃというような後悔が強くあると、一日が終わってしまうのが怖くて夜更かしをしてしまう」という話があるけれど、あれはかなり的を得ているなと思う。そんなわけで、久しぶりに日記を書くことにした。

こういう日が2ヶ月に1回くらいはあるもので、大抵どこか近場に外出しようと思うけれどそのままなってしまうので、少しでも罪滅ぼしというか、何かやったという気持ちを作りたいというか、そんな気持ちで掃除や散歩をすることが多い。単に、圧倒的に運動をしない日になってしまうので、たかが散歩でも良いので肉体的に疲労させて気持ち良く睡眠したいみたいな思惑もある。今日はずっと買おうとと先延ばしにしていた5つセットのボックスティッシュと、お風呂のカビを数ヶ月防いでくれる煙剤を購入しに近くのドラッグストアまで行った。それから頼んでいた宅配クリーニングを受け取る日だったので、クリーニング済みのタグを切り離し、クリーニング用の安物ハンガーから家用のハンガーへせっせと移動をさせた。こんなことでもなにかやったという感覚があれば、無駄な一日を過ごしたという気持ちは案外なくなるものかもしれない。

本当に何もしなかったわけではなく、『僕のヒーローアカデミア』をずうっと読んでいた。先日までの無料公開に追いつき、定期購読しているジャンプを振り返りながら読んでいる。もう少しで追いつきそうだけれど、敵も味方も魅力的なキャラクターが多くてとても良い。思わず涙が溢れそうになる。ヒロアカだけでなく、いくつかの連載も定期購読で振り返りながら読むことにして、これで来週から月曜日に読める漫画が多くなるのが嬉しい。

元に戻れば

 ゴールデンウィークが終わり、少しずつ体を仕事モードに戻している最中である。この連休久しぶりに色々なところに足を運んだ。件の感染症も、落ち着いているのか私たちが慣れてきているのか、生活の一部に刷り込まれていったのか、マスクはつけているがそれ以外は2年前と同じ感じに思える。人通りの多さも、人と人との距離も、これまでの世界と同じになっていることを本来は喜ぶべきなのだと思うけれど、制度や習慣だけが感染症のある世界のまま変わることができなくて、そのちぐはぐさに少しだけ、苦いものが胃に溜まっているような感覚を覚える。自分の頭で考えて、けれど一時の感情に流されないで、ちゃんと行動しなければ。

 世界が元に戻るように見えた時、それは元に戻ったのではなくて、元の世界から進歩をしたはずなのだから、置いていかれないように。

無題の誘い文句

「◯日空いてる?」と用件を言わずに日時だけで尋ねられるのがとても苦手で、そういう連絡が飛び込んでくると、ぐううっと胸が締め付けられたような感じがして、息が詰まってしまう。なんて返そうか、必要のない考えを巡らせて、勝手に疲弊しているのが少し情けない。というかそもそも、この類の連絡のされ方が得意な人はいるのだろうか。

明確な用件があるならば、それを言った上で日時をすり合わせればいいのだから、あえて用件を言わないメリットはこれっぽっちもない。仲の良い友達ならまだしも、「◯日空いてる?」と用件なし日時のみで聞いてくる人は大抵の場合、久しぶりに連絡をしてきた人や、二人で会うほどの仲ではない人が多い。「内容によって暇かどうかは決まるんだよ」は本当にその通りだと思う。

そして、そういう人が用件として持ち出す「久しぶりにご飯でも行けたらと思って!」の裏にある「本当に話したい話」は、大抵わかりやすく透けて見えてしまい、察することができてしまう。察した上で断りづらい選択と行動をこちらに求めてくるの、どう考えても労力が釣り合っていない。

これが相手にどう思われるかなど気にしない性格ならば、こんなに苦労しないのだと思う。「空いてるよー」とか「ごめんね、予定入ってるや」とか「用件による」とかストレートに聞けるなら。察してしまう、けれど嫌われたくはない、そんないい子面した自分が出てしまうのも嫌だ。

きっと歯切れ良く「空いてますよ〜!」と言えてしまえば、全て丸くおさまるのだろうけれど、それでは私だけが心をざわつかせただけで、私の心が浮かばれない。その楽した誘い方に心をすり減らしている人がいるんだぞ、もっと相手のことを考えろよという威嚇の意を込めて、これからも少しだけ反骨精神を滲ませた返事をしていくのだと思う。

消費したくない贈り物

大切な友人が入籍した。

彼女も私も、読書と文章を愛し、心地よい関係性を求め、簡単に言語化してしまわず感情と向き合うことを大切にしている。持っているリズムが似通っているのだなと、短い付き合いの中でも思う。入籍の吉報を聞いた後、彼女のために何か、それもこの喜びの気持ちのままできるだけ早く贈り物をしたいと考えた。

彼女は何度か、私が趣味で自作している短歌をこれ以上ないほど褒めてくれた。そんな彼女の人生の新しいスタートを祝うのなら短歌の形にしたいと思うまでに、そう時間はかからなかった。

 

彼女が大切にしている感覚や言葉をなるべく使って、私にしか贈れない歌にしたかった。彼女がこれからともに人生を歩むパートナーのことは、顔も名前、性格も、何も知らなかったが、彼女が話す彼のことからイメージを膨らませて詠んだ。

二人だけの幸せを掴んで欲しいと願った歌、どんな逆境でも二人で乗り越えて欲しいと願った歌、二人の対話をずっと続けて欲しいと願った歌。全部で三首だ。

良い歌になったのか、喜んでもらえるのかと不安になりながら送信したら、すぐに返信がきた。不安は簡単に吹き飛んだ。こちらが少し照れてしまうほど喜んでくれて、この上ない嬉しさに、私も包まれてしまった。

 

歌人の木下龍也さんが「あなたのための短歌」と題して、個人的なお題に沿った個人的な短歌を作っている。私もいつか、お願いしたいと思っている。木下さんが「あなたのため」に贈られた短歌は、そのどれもが素敵で、受け取られた方々は皆、お守りのように抱き抱えている。私もこんな風に、誰か一人のためだけに歌を詠むことができたらどれほど良いかと思っていた。彼女に贈ることができて本当によかったと思う。

贈ってから数日経った今でも、自分の短歌を見返してしまう。技術とかそういうことを言い出したら、もっと上手に、もっといい言葉選びで、と突き詰めることはできるかもしれない。けれど、この歌が宝物だと言ってくれたのなら、それでいいではないか。

 

この歌は彼女とパートナーにだけ贈ったものだから、どこにも公開することはないだろう。そういう「誰かのため」の短歌を、ひとつまたひとつと詠んでいくことが、私が本当に短歌を通して叶えたいことのひとつなのかもしれないと、確信めいたものを感じた。短歌に出逢って良かった。

ケーキの写真

夜、考えなくて良いことばかり考えてしまい、眠れない日が増えている。

深夜にニュースの見たくないところばかりをぶわっと一気に見て、そのまま関連ワードを検索してしまう。世の中の何に期待して良いかわからないという怒りに近い嘆きや、その改善のために主張をぶつけている人たちを見聞きすることも少ししんどくなっている。同時に、何も行動に起こしていない自分に対して「あなたはどう思うの?」と問いただされているような気さえして、しんどさをダメ押しされる気持ちだ。ぜんぶ勝手なのだけれど。

深夜2時過ぎまでこんな調子で、黒々したものを抱えたまま、スマホを握り締めながら何かに祈るように眠る。

 

ここ数週間、在宅勤務であったことも悪いように働いて、始業時間直前までベッドでぐだぐだして、そのままパソコンに向かう。寝付きが悪いのでほとんど仕事にも集中できず、仕事終わりに本を読んでも数ページで閉じてしまう。わかりやすく不調を感じはじめていた。

 

昨日、2ヶ月ぶりくらいに梅田へ行った。外に出て、ちょっとでも気分転換になればと思ったからだ。

緊急事態宣言が出ているため、営業していないお店も多いだろうなとは思っていたが、多いなんてレベルではなかった。地下街も、駅前の商業ビルも、コンビニなどを除いて空いているお店を探す方が難しい。

自宅と職場の往復、たまに近所を散歩するくらいだからほとんど気づいていなかっただけで、俗な表現だけれど、まさにディストピアだと思ってしまった。

一方で、すれ違う人はみんな普通な顔、大丈夫そうな顔をしているように見えた。別に苛立って歩いていることを望んでいたわけではないけれど、この事態でも平気な顔をできていることへの違和感がどんどん膨らんでしまい、少し気持ち悪くなった。気分転換どころか、今自分たちが置かれている状況がいかに異質かを再確認するだけだった。

帰路、改札外のセブンイレブンポカリスエットを買い、マスクを外して一口飲んだ。体調が少し良くなる味がした。

 

一年前の緊急事態の時は、我慢すればよかった。出歩けないのは不便だし、未知のウイルスへの恐怖は確かにあった。けれど我慢をしていれば、感染症を克服したり、ワクチンができたりという明確なゴールに辿り着くと思っていた。おうち時間を楽しもうと、我慢することにも前向きになれた。

正直、二年目の今の方がしんどい。長引いているからではなくて、我慢に割けばよかったエネルギーを失望や怒りにも使わなければならず、それを正しくちょうどよく昇華させる術が自分の中でうまく掴めていない。ウイルスへの恐怖が、人への恐怖に少しずつ変わってしまっている。必要以上に失望して、体のバランスがうまく取れなくなっている気がする。

同僚に会えば、「(こんな状況だけど)私はうまく向き合えている方ですよ。元気ですよ」みたいな受け応えをしているが、じわじわと削られてきている。それがこのタイミングでぐっと押しかかってきたのだろう。

 

梅田ですれ違った人を思い出す。きっと、みんな平気そうな顔をしながら、見えないところでちゃんと怒ったり、震えたり、折り合いをつけているんだろうなと思っている。私は、折り合いをつけるためにもう少し時間が必要な気がする。ちょうどよく世の中に向き合って、ちゃんと楽しいことを楽しんで、ちゃんと怒るべきことに怒って、誰かの怒りや不穏さに流されないようになりたい。

 

最寄駅で電車を降りた後、近所のケーキ屋さんに寄った。自分のためにケーキを2つ買う。

帰宅してから、ケーキを写真に撮ってSNSに上げようかと考えた。お皿に乗せ、スマホのカメラを起動してあれこれ構えたけれど、撮るのをやめた。そのまま食べた。ケーキの写真に何か言葉を添えようという気にならなかった。

 

ケーキはおいしかった。それだけで良かった。